2012年7月10日火曜日

2012年7月号「受難—いばらの冠が教えるもの」

「受難—いばらの冠が教えるもの」岩島神父のキリスト教入門講座・岩島忠彦氏


イエス自身による 受難と死の意味付け

キリスト教の信仰にとって最も大きな信仰の根のようなものがキリストの受難と死ということです。


マルコ14章の最後の晩餐のシーンに、ミサの原形が語られています。
パンとぶどう酒をとって「これはわたしの体である」「これはわたしの血である」と言う言葉は、「多くの人のために流すわたしの契約の血である」(24節)と、その後に来る受難と死にイエスご自身が意味付けをしているんです。


「多くの人」というのは、聖書の表現では「すべての人」を、さらにこの「ために」という言葉は「代理」ということです。「本当はあなたが死ぬべきところを、代わりにわたしが死にます」ということです。そういうこの最後の晩餐がミサとして今日も記念されているんですね。ぶどう酒がキリストの血となる、パンがキリストの体となると言うことはすべての人のためのキリストの死、その時流れた血であるという意味が与えられているということです。

また聖書では「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。」(ローマ3章24、25節)と、神様がキリストを私たちに犠牲として与えてくださったことを「あがない」と言っています。

ミサというものは犠牲祭儀であると言われます。
祭壇での犠牲はいつも神様と私たちとを結んでくれるものなんですね。だからミサも、父なる神と私との間を、キリストの苦しみと死が結んでくださるという、その記念なんです。

その根にあるのは私たちの根本的な苦しみ、そして罪の問題が入っています。


人は、自分の中で苦しみの種となる、あるいは不幸となるというようなものを背負っている。だからこそイエスの受難と死は、私たちのために、私たちの代わりになって、罪のあがないをしてくださったという表現に集約されているんですね。それについてこれ以上説明してもあまり意味がないと思うんです。それより受難の過程を読んでいくほうが意味があると思うんです。そこでマルコに従って見ていきたいと思います。





ありとあらゆる者に 見捨てられる過程

「彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。そのとき、イエスは弟子たちに言われた、『あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう…』。するとペテロはイエスに言った、『たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません』。イエスは言われた、『あなたによく言っておく。きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう』。ペテロは力をこめて言った、『たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません』。みんなの者もまた、同じようなことを言った。」(マルコ14章26〜31節)

弟子たちというのはずっとイエスに従ってきた人たちです。しかしこの後、皆逃げます。
人が、あるところまでは同行しても、もうついていけなくなる場というものがあります。ですからここでイエスが言っていることはかなり本質的です。


「皆、わたしにつまずく」。イエスはだんだん孤独になっていきます。そこはイエスにとってのギリギリの道です。
容易く「ついていきます」と言えない。これが私たちの救いになるのです。


なぜなら私たちは自分が生きている中に、苦しみとか他人が関与できないような問題を抱えています。典型的なことは死ぬということでしょう。その時、いくら愛する家族であっても誰も一緒に死ねないです。そういうもはや孤独で入っていくよりない道というのがあるわけです。そういうことがこの中で言われていることなんだろうと思います。そしてそれこそ神の業なんだろうと思うのです。
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「一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、『わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい』。そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい』。そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、『アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください』。」(32〜36節)

この「ペテロ、ヤコブ、ヨハネ」は9章にあるイエスの姿が白く輝き、モーセとエリヤ、つまり律法と預言者の代表者と話をしていた時に連れていた三人です。これは旧約聖書の約束がすべてこのイエスによって実現した、その実態はこのゲッセマネだというのです。そこではキリストは恐れおののき、わたしは悲しみのあまり死ぬほどであると言っています。


そこにこの三人だけを連れて行った。神の約束をすべて成就するメシヤというのは光り輝いて来る、そして神の国が実現するんだという意識があったけれども、神の約束が実現したのはこういうどんづまりのような場所だったということなんですね。
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イエスはこれからの受難の道というものをほとんど意味のないものとして感じていたんじゃないかと思います。
苦しみとか罪というものはもともと意味のないものです。


あらゆる宗教は、人はなぜ苦しむのかということを一番中心的な問題としています。キリスト教の場合は、キリストが私たちの苦しみを共にしてくださったということなんです。神の子が人となられたというのは、我々が多くの苦しみに喘いでいるのをすくい上げてくれるんじゃなくて、同じところまで降りてきてそれを一緒にしてくれたということです。そういう形で神と人とが結びつく。


「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(ヨハネ1章14節)というとき、ここまで人間の絶望的運命をも共にされたということなんですね。
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「それから、きてごらんになると、弟子たちが眠っていたので、ペテロに言われた、『シモンよ、眠っているのか、ひと時も目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである』。また離れて行って同じ言葉で祈られた。…三度目にきて言われた、『まだ眠っているのか、休んでいるのか。もうそれでよかろう。時がきた。見よ、人の子は罪人らの手に渡されるのだ。立て、さあ行こう。見よ。わたしを裏切る者が近づいてきた』。」(37〜42節)
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眠るというのは眠りに逃げていくことで、素面でおれないということでしょう。
にもかかわらずもうここに描かれていることは、イエス自身も非常に弱い存在であったということです。だから彼らに慰めを求めていく。しかし彼らは寝ている。そして人にも捨てられ、神様にも捨てられ、完全に孤独に追いやられたということです。だからこそイエスは「この杯をわたしから遠のけてください」と祈っているわけです。

つまり納得できないようなものを無理矢理に最後まで神の意思として受けとめていった。

私たちも、たとえどんなに信心しようがそれで全部解決することはないわけです。だからこそこのキリストの十字架に我が身を合わせることができる。なぜならキリストは「この杯をわたしから遠のけてください」と言いながらその杯をいわば飲み干したわけです。それが最後の晩餐で「あなたがたのために流される契約の杯」、ミサのとき記念される契約の杯なんです。いわばギリギリでこういうことが成立しているわけです。

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ゲッセマネのイエスの苦しみの根は何だろうか。
ペテロがイエスを否むとか、ユダが裏切るという象徴で表わされています。イエスはこの人たちを限りなく大切にした。しかしこの愛する者が自分を殺そうとする。その罪のあがない。

結局神の愛というものは、ここまで自分のほうが耐えるということで初めて全面的な愛とか赦しというもののメッセージが示されるということなんですね。ですからゲッセマネほど孤独と不条理と苦しみというものがあった場はないと思います。そこで神ご自身がそれを体験してくださったということなんです。

私たちは、もう誰も応えてくれないような場というのがある。

この痛みとか苦しみ、あるいは人から受けた傷、どんなに誰も理解してくれないというようなものも、神様がそういう場を先に共にしてくださった。だから自分のどんな孤独の場でも苦しみの場でも、あるいは死を前にした時にも、もう既にそこにキリストが先に来ておられる。ここに述べられていることはもはや単なる歴史的な事実ということだけでは描けないことです。

リスト教の信仰の中でも十字架、あるいはゲッセマネという場所が今でも大切にされている。そこにある意味というのは、私の闇とか罪とか、そういう中に神ご自身が来られた。だから自分の中にどんなに暗い部分があっても、そこに神が先回りしてくださっているということに対する信頼です。

最後に「立て、さあ行こう。見よ。わたしを裏切る者が近づいてきた」と、イエス自身もほとんど絶望に近いものに向かっていく勇気というものをそこで示しているわけです。
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受難の道は、ありとあらゆる者に見捨てられる過程です。

そういう中で大祭司や長老たちから裁判で裁かれ、そして下役たちからも拳で叩かれた。その後ピラトのところに連れて行かれ、異邦人たちの裁判でも裁かれ、捨てられます。こうやって捨てられ捨てられして行き着くところが十字架の死。そこにあるのは皆、捨てていった人の罪です。ご都合であったり、卑怯さであったり、人間の心にある残忍さであったり、そういう言ってみれば不純なもの。それが被さってイエスの受難を構成しています。

だから「人の罪を背負って」というのは非常に正しいです。
最終的にピラトは納得しないままに政治家の都合のためにイエスを死刑にしました。このピラトの裁判による鞭打ちにも、私たちの受難というか死というものが非常に新しい段階で現れていると思います。

ここで初めてイエスは自分の体を攻撃されます。
人は体を生きています。体を攻撃されるということはその人自体に対する攻撃なんです。ですからこの鞭打ちということの中に実際の死が始まっています。イエスの死は我々の死でもあるんです。我々はいつか死にます。死ぬ時はまず死のつまずきとでもいうものは外からの攻撃としてやってきます。

鞭ではなく癌細胞かもしれません。その時私たちは、何かあってはならないことのように感じるんです。この世で生きる一つ一つの動作は全部、体を通してです。その体が外部から攻撃され、最終的にはそれは人を殺すんです。イエスはそういう実際の体への攻撃、しかも人の悪意によってなされる攻撃を体にも受け、そういう道を通って十字架につけられた。そして亡くなったということが書かれているわけです。
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神の愛の自己表現

イエスという方は、自分の命を、自分がギリギリのところで、神の意思によってささげました。
これは、神様の愛の福音の究極的な形です。

ヨハネ福音書の最後の晩餐のところで「友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15章13節)というイエスの言葉があります。イエスの死の意味はそういうことなんです。

自分が大切にする人のために自分の命を全部ささげる。
それ以上の愛の表現の仕方はない。神の愛を現す時、この方法でするということなんだと思います。やはりそれは何かただならぬものなんです。

そしてある意味、神の愛の自己表現なんです。
最終的には神がどれほど私たち一人一人を大切にしておられるかというメッセージを、イエスは自分の死で、あるいは苦しみで証印したんだろうと思うんですね。
(文責・月刊誌編集部)