2012年7月9日月曜日

2012年7月号「聖霊(2)—わたしは主のもの」

「聖霊(2)わたしは主のもの」いちじく桑の木登りーわたしの教理問答・石居基夫氏、吉崎恵子


聖霊—私たちを新たに造り変えて下さる

石居
「聖霊」とは、神様の出来事を私たちの内にもたらす、神様ご自身の働き、神様ご自身と言ってよいと思うんです。その聖霊の働き、私たちが神様との交わりの中に生かされて来ることを、「聖化」と呼んだりします。聖なるものと成すということです。私たちがもう一度新たな者として神様に生かされていくということを言っているんですね。

これはヨハネ福音書3章のニコデモとの対話の中でイエス様が「霊から新しく生まれなければならない」と言われる、その通りの事です。私たちに御言葉が語られて、ただ知識として「神様とはこういうお方…」と分かるだけでは、本当の意味で生きる事にはならないですよね。

信仰は単なる知識ではなくて、神様の働きが確かに私を生かすものとして働いてくる。それが聖霊の働きなんです。
その聖霊の働きが私たちに働く事、それが霊によって私たちを新たに造り変えて、新たに生まれさせて新しく生かしめるということだと思うんです。


その時に、私たち自身は罪人でしかないけれども、何かしら神様の働きとしてもたらされる実りがある。それがきっと人を力づけたり、慰めたりすることが出来ることなんだと思います。
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たとえば私たちがイエス様の事を伝えたいと思った時に、知識として伝えるという事だけじゃなくて、その事によって本当にその人が慰めを得てもらいたい。その事のためにはやはり聖霊が働かないとなりません。私たちはどんな言葉を語れるか…なんて思うと、分からないんですよね。でもイエス様は言うんです。


「実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」(マタイ10章20節)


だから信仰を持つ一人ひとりがイエス様の事を伝えたいと、言葉にならない言葉で辿々しく証しをする、でもそこで語って下さるのは神様ご自身なんです。


イエス様の姿として知らされてくる

石居
そして実際に私たちが信仰の中で悩んだりつまずいたりする、そういう私たちをいつでも助け起こして下さるのは、この聖霊の働きだと言ってよいと思うのです。

でも、私たちはそれが「聖霊だ」というふうに思うよりも、「神様」、「イエス様」って多分思うので、「聖霊」っていう言葉がすぐに出てこないかもしれません。でも、その事はすごく大事な事で、神様の事も聖霊の事も、実はイエス様ご自身として私たちに知らされてくるんじゃないかと思います。イエス様によって私たちは初めてその事が具体的に私への働きとして思い起こされてくるんじゃないかなと思うんです。

実際にフィリポがイエス様に「主よ、わたしたちに御父をお示しください」(ヨハネ14章8節)と言うと、イエス様は「わたしを見た者は、父を見たのだ」(9節)とおっしゃる。
私たちが神様を知るというのは、イエス様を通して知るんですね。

ということは、イエス様を知らなければ、神様は分からない…。

石居
本当に私たちが神様を分かるというのは、イエス様を通してだと聖書は言っているし、その事のためにイエス様が私たちに与えられていると思います。そのイエス様の御言葉が聖霊と一つになって私たちのうちに働く。だから聖霊の働きという事も、聖霊ということだけで知られるのではなくて、イエス様ご自身として私たちに知らされてきます。

だから私たちは、聖霊の働きということを考える時にも、具体的に私たちの内に見えてくる姿としては、イエス様の姿というものが思い浮かばれてくる。


つまりそれこそが聖霊が伝えたい内容ですから、聖霊が働く事の中でイエス・キリストの救いという事を思うし、「あ、イエス様のまなざしが私の内にある」とか、「イエス様の御手が私に差し伸べられた」、「イエス様ご自身が私を抱きしめて下さっているんだ」とか、そういうふうな体験として私たちは霊の働きを受けとっているのじゃないかなと思います。

生きているのはもはや私ではない

石居
「聖霊によらなければ誰もイエスは主であるとは言えないのです」(一コリント12章3節)
とありますように、聖霊が働くということによって初めて私たちの信仰が生まれる。私たちの信仰は神様ご自身の働きなんですね。


本当に、それ以外の何ものでもないですね。

石居
だからこそ私たちは、聖霊の働きがあるようにといつも祈っていく必要があります。

 
多くの方が、自分の信仰はこれじゃクリスチャンとは言えない、という悩みをおっしゃるんですけど、でもその人がどう思うかよりも、もっと深い所で主がすでにその人を捉えていて下さっているということですね。

石居  
そうですね。私たちが信仰を持っていると言ったとしても、私自身の姿なんて本当に取るに足りない者だし、神様から遠い者ということを実感させられるばっかりなんですよね。
だから「私なんて…」と思われるのは正直な事だと思います。その通りなので、それでいいんです。

でも、そういう私たちをなお捉えて下さる聖霊が働いているから、私たちの信仰の告白が生まれてくるし、私たちが何事かに用いられてくる。私たち自身の信仰なんていつも取るに足りないものなのだから、神様ご自身の働きを求めていくし、その働きに委ねてよいのだと思うのです。

実際にそうした信仰の実りがもたらされる。ガラテヤ5章で、それが聖霊の実りとして語られています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(22、23節)これが聖霊の働きによって私たちの内に形作られると言っています。すごいことですよね。これは、本当に私自身の中にそんなものがあるかしらと思うんですよね。

充分働いていただいてないんじゃないかしらと…

石居
私たち自身の姿を見たらそうとしか言えないですね。
たとえば、第一コリント13章、愛の賛歌としてよく知られている所ですけれど、パウロは言うんです。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない…」(4節)って。
ここにあるどの言葉一つ取ったって「私にはない…」と思わされるような事ですよね。
でも、その言葉が確かに実現して、生きられた方がある。それはイエス様なんですよね。

そして私は主のものです。

石居
そう。私たちはその主によって捉えられている。そしてあなたの内に主が働かれるのだ。それが信仰の出来事なんです。

ガラテヤ書の中でパウロ自身が言うんです。「キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(2章19、20節)これが信仰の奇跡なんです。これはパウロだから言えたんじゃなくて、皆そうした奇跡の中に生かされているということだと思うんです。

「あなたの内にキリストが働く。あなた自身は本当に取るに足りない者だし、みじめなものだろう。汚れた罪のものでしかないだろう。そうだ、よく知っている。でも、そのあなたを神様は愛し、捉えて下さった。キリストのものとして下さった。キリストはあなたの内に生きる。キリストが働かれる。だから私たちはこんな者でも、何事か神様の御業に用いられてくる。神の御業はそのような奇跡を私たちの内にもたらすのだ。安心しなさい」、と。
それはすべて聖霊がして下さるということなんですね。

はい。それが、私たちがもう一度新たに生まれるという出来事がもたらされているということだと思います
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この人生をやり直したい

石居
ヨハネ福音書3章でニコデモはイエス様に「新たに生まれなければ…」(3節)と言われたときに、「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)と言うんです。

それは、「もう一度生まれる事なんか出来るか」と理屈で考えているように見える言葉でもあるんですけど、でもニコデモの求めは「やり直したい」。この人生をやり直したい、もう一度生まれ変われるものなら生まれ変わりたいと。自分の罪をよく知っているんですよ。

「どうしたら生まれ変わる事なんかできますか?私には出来ないんじゃないか…」という嘆きの言葉ですよね。

「そうだ、分かっている。でも霊はそのことを、あなたの内に出来事として起こすのだ。」イエス様はそう言われているのだと思います。その霊の力の中で、神様ご自身の力の中で、私たちは新たに生まれる。造り変えられていく。
その奇跡の中に私たちは生かしていただけるんじゃないかと思うんです。
(文責・月刊誌編集部)