2012年7月11日水曜日

2012年7月号「典礼—その歴史と展望—」



キリスト者、教会の在り方が問われている震災後の我が国で、信仰共同体の命である礼拝から、自らを見つめ直したいとの祈りの内に、記念番組シリーズをお届け致します。
第一回目は典礼学の視点から、キリスト教二千年の歴史の中での礼拝の本質を、上智大学の具神父様に伺います。礼拝とは何か、教会は何故礼拝を続けるのか、この国で今、主イエスの福音を分かち合う意味を、ご一緒に考えて参りたいと願います。

礼拝の出発点—聖なる三日間

―キリスト教会は二千年以上に渡り絶えず礼拝を守ってきたわけですが、そもそも礼拝とは一体何か、これまでの歴史も踏まえてお聞かせ頂けますか。

「礼拝」という言葉を一番簡単に説明しますと、「キリスト者たちの祈り」だと思うのです。一人での祈りではなく、同じ神を信じている共同体が、神に向かって賛美と感謝を捧げる「祈り」だと思います。七十年代頃に書かれた使徒言行録を見ると、初期キリスト者たちがなぜ礼拝をし始めたかということがよく分かります。やはり礼拝の出発点、原体験というものは、イエス・キリストの復活の体験だと思うのです。

―復活を体験することが礼拝の原点なのですね。

▼そうです。それはただの復活ではなく、厳密に言えば「聖なる三日間」と呼ばれる出来事ですね。

―「聖なる三日間」とは?

▼イエス様が弟子たちとエルサレムで最後の食事をされて、その晩ゲッセマネでお祈りをされて、そして捕まって拷問されて、今の計算だと木曜日の夜から金曜日の朝になるんですけど、イエス様が死刑宣告を受けてゴルゴタで十字架に架けられます。それが午前九時で、午後三時頃にイエス様は亡くなられるんですね。その後に葬られて金曜日が終わって、そして土曜日の安息日の次の日に、女性たちが墓に向かいます。

そこからイエス様の新しい命を弟子たちが経験することになるのですが、その三日間で起こった出来事。受難と死を通って現れた新しい命としての、この復活の体験をした弟子たちは、「自分が神様に赦される存在、神様に愛される存在である」ということを体験したのです。

つまり復活されたイエス様がペトロに「お前は何で私が亡くなる前に私のことを知らないと言ったのか」とはおっしゃらないで、赦しや平和、そして「あなたたちが今私から受けたメッセージを人々に伝えなさい」と。そこで弟子たちは平和と喜びを持って世に向かうことになります。

そのような三日間の悲しみと喜びといったものを神様の恵みとして経験した弟子たちが、この神様がどういう方であるかということを自分たちが深め、そして宣べ伝える源泉として、この祈りを共同で行ったということが礼拝の出発点じゃないかと思われます。
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―その三日間が、二千年の歴史の源泉なんですね。

はい。人はある意味、記憶の存在だと思うんですね。
私たちが絶対に忘れてはいけない記憶を思い起こすこと、これが言ってみれば礼拝だと思います。ですから礼拝の時に歌ったり跪いたり手を合わせたり、聖書朗読をしたりパンを裂いたり、色々なシンボルを使いますが、それらはすべて聖なる三日間の出来事がどういうものであるかということを思い起こし、それが現在も神様の恵みであるということを認識するための一つの場だと思います。

神様の永遠の中の現在に戻る


▼私たち人間には、時間や歴史や空間があって、二千年前だとか、日本だとかイスラエルだとか区別があるのですけれども、神様の救いの御業という観点から見れば、それがいわゆるアウグスティヌスが言っている「永遠」という感覚ですが、全てが現在になるわけですね、神様の恵みの観点から見れば。

ですから私たちが礼拝を通して二千年前の、あのエルサレムの具体的な出来事に戻るということは、神様の永遠の中の現在に、私たちが戻らせていただくということになると思います。

―神様の永遠の中の現在に私たちが与る…すぐには分かりづらいのですが…。

▼そうですね、原体験としての聖なる三日間の出来事というものは、私たちの観点から見れば二千年前のエルサレムで起こったことですが、キリスト教の救いの歴史の中で見れば、神様がこの世の終わり、つまりこの世の完成まで人類全体を救う恵みとして与えられたということが、一つの大前提だと思います。

そして現在を生きる私たちが、その事柄をどのように自分たちのものとして味わうかということが一つの課題だと思います。だからこそ礼拝というものは神様から与えられた三日間の原体験に私たちが戻り、そこから力を頂く場なのだと言えます。

人間の生活というのは様々な事がありまして、子供の時から今まで、私自身の記憶を考えてみても、色々な挫折や痛み、傷を抱えながら人間は生きているわけですよね。それはたぶん、二千年前の弟子たちがイエスの受難と死を見て経験したものと似ているものかもしれません。

ですからある意味では人間の力ではどうしようもないような状況に置かれている人間が、もう一度礼拝の場に来て、ありのままの今の自分が持っている記憶、痛みや傷の記憶を、歌を通して、あるいはパンとぶどう酒の形を通して自分の記憶を捧げ、そしてそこで神様がイエス・キリストを通して与えて下さった聖なる三日間の記憶を私たちが頂く。
そうすることによって、自分の痛みの記憶というものは赦され、癒され、新しい力を頂くというのが、礼拝の一つの具体的な体験だろうと思います。

礼拝の本質を取り戻すために
―歴史の中で教会は色々な所を通ってきて、礼拝を刷新してきたと思うのですが、その精神とはなんでしょうか。

▼教会は人間の営みなので、イエス・キリストの現存(今も共におられること)に共同体がもっと深く参与するという本質的な部分からズレたり、場合によっては迷信的な要素が強くなったり、それに対する刷新の動きが幾度もありました。

例えばルターによって始まった宗教改革も、その一つの動きだと思います。やはり中世末期のローマカトリック教会というのは、非常に政治と密着して、非本質的なものが沢山あったと思うんですね。そこでルターたちは、神様の御言葉を中心として、礼拝の本質を取り戻すべきではないかということで、改革が始まったことだと思います。

カトリック教会では、1962年から65年までの第二バチカン公会議が、現代においては一番大きな出来事だったと思うんですね。この現代をキリスト者たちがどのように生きるべきか、あるいはキリスト教信仰と言うものが、この現代においてどういうものであるのかということを再認識するための会議だったと思うんです。

この公会議の一つのキャッチフレーズに、イタリア語で「アジョールナメント」という言葉があります。これは「適用化」、現代の文化にキリスト教の福音が適用するためにはどうすればいいかという意味です。
そして、この中で典礼、礼拝をどの様に刷新するのかということが課題になったんですけれども、その一つは言語です。

カトリック教会は第二バチカン公会議が行われる前までは、ラテン語を公式用語として礼拝で使っていたんです。それは司祭は分かるかも知れないけれども、実際に信徒たちは分からないわけです。ですから一番大きく変わったのが、ラテン語から自国語へ変わったということ。

そしてもう一つはプロテスタントの影響だと思うのですが、聖書を非常に大事にするようになりました。神様が今、私たちに語るメッセージとしての聖書に対する再認識と言いましょうか。そのようなことが、カトリック教会の典礼の礼拝刷新において大きなことだと思います。

―私たちが礼拝するのは十字架と復活のイエスなのですが、そのお方が今も生きておられるという事は、どのように分かることなのでしょうか?

▼そうですね、イエス様は目には見えないですし、私たちが信じている事は本当に正しい事なのだろうか、と思う事もあるかと思うんです。昔からラテン語で「センススフィデイ」(信仰の感覚)という言葉がありますが、信仰というものには知的なものや情緒的なもの、あるいは倫理的な価値も含まれる「人間の体験」だと思うんですね。

しかも、それはやはり一人だけで確かめるのではなくて、共同体全体が聖霊の体験として「これは神様から来ているものである」という認識なのです。

例えば一人の信仰者が洗礼を受けて共同体に加わりますと、そこで信仰共同体が培ってきた一つの伝統としての信仰の感覚がその人に伝わっていく。ですから私たちは長い礼拝の生活を通して本当の神様からの恵みというものを少しずつ深めていく事が出来るのではないかと思います。

でもこの共同体というのは、場合によっては非常にやかましくて、関わりたくないような場合もありますね。しかし家族の事を考えてみますと、嫌だからといって家族から離れる事は出来ないですね。そこには喜びもあるけれど、難しい事、煩わしい事も一緒に抱えながら歩むのが家族だと思います。そういう意味でやはり共同体も、共同体の記憶も含め、喜ばしい事も煩わしい事も一緒になって、一つの共同体としての絆が深まっていく事だと思います。

最終的には、それら全ての事をイエス様が復活の恵みによって、癒しの恵み、赦しの恵みを通して共同体を成長させて下さる事でしょうね。
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昨年の震災後の教会の様々な支援活動の中で、実際にそこで被害に遭われた方々に何か言葉で慰めるということは出来ないのではないかと正直思いました。ですから被災地の人々の苦しみは、イエス様の復活の恵みによっていずれ変容されるという事を信じながら祈り続けるということだと思います。

数ヶ月前にイギリスの聖公会のウェストミンスター寺院で行われた、日本の被災地のための礼拝を見たのですが、その説教で、「日本という遠い国で苦しまれている方のために何も出来ないかもしれないが、このように私たちが一緒に祈っていること、そして私たちが祈っている主であるイエス様が復活された方であるということを信じ、その信仰を被災者の方と一緒にしようとする試み自体が、一つの大きな励みになると信じます」とおっしゃったんです。

まさにその通りだと思います。日本でも「絆」という事が大事になっていますが、日本だけではなく世界全体がある種のコンパッションです。そして被災者と一緒に歩もうとする態度の中に、すでにイエス様の復活の希望というものが現れているのではないかと思っております。

―そういう意味でも「共同体」ということなんですね。

▼そうですね。ですから煩わしい事も一緒に背負って歩むというのが共同体の本当の意味だと思いますし、それがあって本当の意味での絆が深まるのだと思います。
(文責・月刊誌編集部)